夷洲斎日乗   老読者の読書日記

アクセスカウンタ

zoom RSS 論理がセカイを説明しない…そういうセカイで

<<   作成日時 : 2012/10/15 20:41   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 マクラに何も思いつかない。
 先頃逝った大滝秀治風に言えば「本当にツマラン」
『フランス白粉の謎 新訳版』 エラリー・クイーン 中村有希=訳 創元推理文庫
 クイーンの国名シリーズは、どうやら出版順で出るようだ。
 この『フランス白粉』はクイーンの2作目で、初期のストレートな傑作(『オランダ靴』より好きかも知れない)
 2作目で、その後の(混迷も含めた)路線が確立している。
〈論理〉の小説であると言う、その路線がである。
 余計な部分は、実は何一つない。その「事実」にまず驚かされる。本の中味のどんな些細な部分も、作中の探偵、エラリー・クイーンが犯人を指摘する論理のために捧げられている。
 例えば、死体が発見される前の二つの〈シーン〉
 クイーン親子のアパートで、警察関係者が非公式な会合を開いている。そのアパートメントの内部描写が、かなりクドクド行われていることにすら、実は意味がある。
 次の、デパートの重役たちの会議のシーンで、ある場所をかなり詳しく描写する(そのデパートのペントハウス、社長の私室というのが、後に殺人現場であることが判明するのだが)実はここで、その解明のためのヒントが提示されている。一見、クイーン家の内部描写と同じクドさで書かれているため、読者は見落とし易くなるという寸法だ。
 今回それに気付いたのも、あるいは新訳の効果というものかもしれない。
 この二つのシーンでは、犯人の〈動機〉や、かなり奇妙な死体の隠し方(デパートのショウウインドウ内で行われているデモンストレーションの最中に死体が転がり出る、という、「映画的」なセンセーションの効果、だけではなく、そのこと自体にちゃんと意味がある)の理由すら書かれている。
 それにしても、ニュー・ヨークの百貨店というのは、ヴァン・ダインは到底書かないアメリカ的な舞台設定だ。出入りに関するセキュリティもタイムスケジュールに沿って万全でありながら、開店してしまえば、客に紛れてしまえる。
 1920年代でそこまでのセキュリティ意識というのも、アメリカ…ニュー・ヨークならでは、だろうし、ヨーロッパの機能的家具のデモンストレーションと講演会というのも、いかにもアメリカ的だ。
 そうした「舞台設定」を選択する〈ドライ〉なカンジがクイーンの真骨頂であり、またオモチャの国じみた〈幼い〉カンジを醸し出すところでもある。
 この世のあらゆる事象が、〈論理〉によって解明できる、というあまりにも楽天的に見える信念が。
 しかし、もちろんこの小説の〈犯人〉のように〈論理的に行動〉する者は現実には存在しない。犯人が論理的だからこそ(最後のシーンだけは違うが)名探偵エラリーが論理的にその行動を再構成できる、のだ。(実は「はじめに」の中に、そのことも示唆されている…だから、件の「J・J・マック」の飾りの如き序文にすら、ちゃんと「意味」はある)
 この、おかしいのはそう(「論理的」)ではない〈現実〉の方だとでも言いたげな小説に、子供の頃は素直に感動し、若い頃は幻想小説としての本格ミステリーを見、いまは、…一種の「祈り」では無かったかと思えるようになっている。
 おそらくそれは、二人のクイーンがユダヤ人であることと、おそらく無関係ではない。『十日間の不思議』や『九尾の猫』それに『帝王の死』など後期に色濃く表れるソレ(〈論理〉に「祈り」を捧げるが、〈現実〉は(いっそ〈感情〉と言ってもいいが)ジワジワと浸透して〈(内部の)論理〉を崩していく…という鬱展開の萌芽は、既にこの長篇第2作から芽生えていたのかもしれない……
 それと、特にシーン描写に顕著な〈映画〉の影響。
 デパートのショウウインドウ内に衆人環視の中転がり出る死体、見ていた通行人が悲鳴を上げ、その輪はウインドウからじりじり遠ざかる。警官がその輪に割って入ってくる。
 …という死体発見のシーンもそうだし、前述のデパート重役会議前の社長と秘書の会話シーン、社長は窓から五番街を見下ろし朝の自動車の渋滞を眺めている。(カメラが)室内に戻ると、秘書が会話の流れでさりげなく社長のデスクの上を指差す。(その上に、後に重大な意味を持つ色々な品が置かれている)といったシーンも、何だか今でもアメリカの〈映画〉に有りそうなシーン描写だ。
 小説の最後で、名探偵エラリーが事件関係者全員を集めて自分が到達した〈論理〉を説明するシーン(まさに「名探偵皆を集めて、さて、と言い」だが)の緊張感(サスペンス)も、かなり映画的だ。
 もっとも、本来映画的な「ロマンス」や「家庭の悲劇」は、出て来はするものの、この本では、ミステリー小説としては(本当に全く)意味を持たない。(無意味の意味というのがあるのだが)その辺がパロディ染みているのも含めて、当時の読者にはナニカ突き抜けたモノが感じられたのだろう。
 だから現代で書かれる小説が、アニメやマンガの影響を受けるのは、別に嘆くには値しない。むしろ当然のことだ。すぐに気付かれるようでは芸が無いということも言えるが。

 時を開けて何度も読み返せば(実は、犯人が分かっていても愉しめる)それぞれ違った面が見られるというだけでも、これは「傑作」だと言えるだろう。(作者たちの(表層的な)「意図」をすら超えて)
フランス白粉の謎【新訳版】 (創元推理文庫)
東京創元社
エラリー・クイーン

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by フランス白粉の謎【新訳版】 (創元推理文庫) の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
論理がセカイを説明しない…そういうセカイで 夷洲斎日乗   老読者の読書日記/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる