「隣之怪 木守り」木原浩勝 MF文庫ダ・ヴィンチ

 梅雨の最中で、本格的な夏とは言えないが、定番の怪談集がそろそろ出始めた。
 作者は、「新・耳袋」のかたわれである。扶桑社版の「新・耳・袋」(百話載せてしまっている、アレだ)以来だから、読者としては20年来の付合いということになる。(もう片方の「なまなりさん」も購入してしまった)
 もっとも、〈怪談〉の作者というか、編者に対して、あまり個別的に意識したことはない。これだけ沢山いれば、それなりに〈個性〉もあるのだろうけれども。
 前にも書いたが、怪談を読む理由は自分でも良くわからない。時折、怪談本を読むと、本当に生理的なまでに嫌な気分になることがあるが、まさかそうなる事を望んで、というわけでもないだろう。
 〈物語〉の原質を求めて、というようなことは、完全な後付である。経験のテキスト化と変質の回路(もっとも、「新・耳袋」ではその回路を意識的に閉じていたわけであるが)、現代に唯一残った〈口承文芸〉とか、理屈はいくらでも付けられるが、それを〈読む〉という行為のパトスは説明し難い。
 単に好きだから、だとしても、その何が好きなのか…

 そんな戯言はそこまでとして、この本、である。コンビで編んでいた「新・耳袋」のうち、これはどちらが取材した話かまでは書かれていないが、10巻も読めば、何となく、二つの傾向が存在することがわかるものだ。
 この本にあるような、どこかほのぼのとした話柄(あかずきんときつね、という趣の、「はじめてのおつかい」などに代表されるような)は、木原の方だったのだと。表題作の「木守り」も、陰惨な因縁話でありながら、どこかほのぼのした余韻があると言うと言い過ぎだろうか。基本的に、因果というのは、一種の〈論理〉…ああしたからこうなった、というその関連性が特殊なだけの…だからだろうか。つまりは、〈腑に落ちる〉話が多いのである。因縁とか因果というのが、現象(その家の主人が次々に変死するとか)に対する説明だということだ。そしてそれは、何も怪談に限らず、〈物語〉というものの機能の一つだとは考えられないだろうか。だからこそ、一種肩透かしを喰ったような索漠感が残るとしても、何時までも怪談や不思議体験の口承文芸は語り継がれているのではないだろうか。
隣之怪 木守り(MF文庫ダ・ヴィンチ) (MF文庫 ダ・ヴィンチ き 2-1)
メディアファクトリー
木原浩勝

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by ウェブリブログ


ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック