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夷洲斎日乗  天才読者の読書日記

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年に400冊ほど本を読むが、
徒然にそうした本の感想を書き綴ってみたい。
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「皇紀・万博・オリンピック」古川隆久 中公新書

2009/11/08 02:59
〈皇室ブランドと経済発展〉

〔皇紀〕というのに興味があったわけだろう。と、他人事の如く書くのは、この未読本を発見した時、何を思ってこの本を買ったのか、どうしても思い出せなかったからである。
 読めば、戦前・戦中の万博やオリンピック開催への、一般庶民の期待の在りどころが、実は戦後に実現したソレらのイベントへの期待感と、実際の効果とさして違いが無いことがよくわかる。
 違う、のが、太平洋戦争の敗北を境にして、皇紀をはじめとする、著者の言う〈皇室ブランド〉という建前がはずれ、よりあからさまなむしろ〔民主的な〕欲望の発現となったことである。
 この本を読むまでは、〔皇紀〕というのがちゃんと法制化された制度だということも知らなかったし、独自の紀年法を所持することが、いわば近代化へのステップだという指摘にも気付くことはなかった。
 あの戦争前は、そうした歴史的保証(独自性)あるいは、著者が名付けたように〔ブランド〕が、経済発展という、至極単純な欲望の発露の前段階として必要だったということだ。
 その箍が外れるとどうなるかというのは、戦後の高度経済成長、なにより、あのバブル景気を思い出せば、現在の我々には肌身に染みた経験である。企業も個人もただ膨張し、無制限に〔成長〕すること自体が主目的であるという錯視が、万博やオリンピックといったイベントによる〔経済効果〕だけを幻視し、その幻想の上にまた膨張するというスパイラルが生じ、その幻想が醒めれば一気にほとんど全ての価値が下落するという、あの現象だ。
 結局、戦争さえも、勝ちさえすれば「経済的に発展」するという期待(国民的コンセンサス)のもとに行われたという、身も蓋もない事実。
 上つ方の思想統制の思惑すら、その庶民感覚の欲望に呑み込まれる様には、一種の肌寒さすら感ずる。
 結局、オリンピックが平和の祭典だというのは、そうした〔欲望〕の要請に従った、戦争の代替物だということなのである。…つまり、戦争という事実も、戦前の庶民感覚からすれば、一種の経済発展を目的としたイベントだった、とさえ言い得るわけだ。

 ちょっと、怖ろしい結論だ。現在の、そうしたイベントに対する意識が、その感覚と大差ないことを思えば、一層肌寒さも増すというものである。
皇紀・万博・オリンピック―皇室ブランドと経済発展 (中公新書)
中央公論社
古川 隆久

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「QED 出雲神伝説」高田崇史 講談社ノベルス

2009/11/06 21:33
 このシリーズももう16冊目だ。
 一種の歴史ミステリーとして、初期の頃はその「歴史」の謎の解明にあまりにも重点が置かれていたため、作中で起こる殺人事件の解明はほとんど付けたし、あっても無くても構わないくらいだった。
 それくらい、バランスが悪い小説だった気がする。
 それが、いつも気になっていたものだ。大体、「名探偵」役の桑原崇という人物が、殺人事件の謎を解くのはいつも「ついで」なのである。探偵役のくせに、現実の殺人事件に興味が無いという特異な設定だ。浅見光彦のハイパーバージョンとでもいうか。
 ここまで続けると、日本古代史に関して、「桑原史観」(高田史観だが)みたいなものが、シリーズとしては定着してきて、基本の詳細な説明すらされなくなっている。
「古代日本、大和朝廷では貴族階級以上だけが「人」であり、それ以外の者はそう見做されなかった。つまりは動物や妖怪、である。その中でも力あるモノは、「神」として二重三重に呪的に防御された神社や聖地に閉じ込め、二度と出てこないように祈り籠められている。「伊勢」も「出雲」も「諏訪」も、そうした意味がある神社である」
 まあ、ざっとそうした感じの史観、である。
 はじめのうちは、シャーロック・ホームズとか、龍馬暗殺とか、そういう題材も扱っていたのだが、ここ数年はだいたいその史観の補足説明、例証の増設が続いている感じだ。
大和朝廷の「霊的支配」の構造というのはそれ自体は面白いが、ミステリー部分と巧く繋がっている場合とそうでない場合の落差が激しすぎて、(今回は、少しはミステリーに重点が置かれているが、それも桑原の「個人的な」動機が介在しているからに過ぎない)作者の「意図」が曖昧になる傾向がある。ミステリー部分を外すと、変人の神社仏閣めぐりが延々続くだけという、少なくとも現代の「小説」としていかがなものか、という風になりかねないから、仕方が無いか。
QED 出雲神伝説 (講談社ノベルス)
講談社
高田 崇史

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「白骨の語り部 作家六波羅一輝の推理」鯨 統一郎 中公文庫

2009/11/05 20:14
 鯨統一郎、という作家は、これはいつも思うのだが、何となくバランスがおかしい。
 デビュー作が、本気とも冗談ともつかない、歴史ミステリーのパロディじみた「邪馬台国はどこですか」だからだろうか。「論理」を「展開」すること自体の虚無…を感じてしまうと言えば、言い過ぎになるかもしれないが。

 この小説も、外見は民俗学的テーマを交えた「本格」ミステリーである。
「発見された、死後一年は経過している白骨死体は、歯型とDNAから、昨日まで生きていたはずの女性だと判明した」
 基本的な「謎」は、これ一つである。実のところ、基本トリックはすぐにわかってしまう。冒頭、堂々と伏線が明示されるあたり、「本格ミステリー」として決して外れていないからこそ、すぐにわかってしまうのである。ある程度のミステリー・マニアなら、アレとコレを組み合わせたな、と、ピンと来るものがあるはずだ。
 でも、この小説のキモは、実はそんなところにあるのではない。探偵役の六波羅一輝の、その探偵術なのである。
 何と、「自動書記」なのだ。パソコンの画面を前に、あれこれと書いているうちに忘我の境地になり、意識を失う。目を覚ますと、その画面に犯人の名が書かれているという…
 これはある意味、「本格ミステリー」というもの自体のぶっちゃけバナシではないか。
 しかも、シリーズ1作目だというのに、その基本設定を利用してとんでもないことをする(される)のである。そして、三段オチじみた、「真」の犯人すら暗示して終わる。

 ガジェットを配置して、それを骨までしゃぶる様に利用した、とでも言えばいいだろうか。
 この作者の描く「人間関係」はいつも微妙にギクシャクしていて、登場人物が、自分が「記号」であることを意識した行動をするという、なんとも評価しづらい点を我慢すれば、相応に暇はつぶせる。
 ただし、民俗学的な「謎」が解かれることをあまり期待すると、肩透かしを喰う可能性があるから注意。
白骨の語り部 - 作家六波羅一輝の推理 (中公文庫)
中央公論新社
鯨 統一郎

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「辻浄瑠璃・寝耳鉄砲 他一篇」幸田露伴 岩波文庫

2009/11/04 20:34
 明治時代の小説を読むと、その文章があるリズムを持っている事に気付く。本当は、音読すべきが如き文章なのだということだ。日本でも、本来文章とは黙読ではなく、音読すべきものとして書かれ、読まれていたということが、改めてわかる。
 幸田露伴の文章は、多分、その中間的なものだ。かなり「調子」があり、文章自体がまさに川のように流れているが、黙読で読むものの邪魔もしない。何となく、ある種の心地よさを感じるのである。
 新聞連載されていたらしいが、各回に「枕」がおかれているのも床しさを感じさせる。それは、現代では主に邪魔にされてしまうものだが、その時代の雰囲気、登場人物の心情、などを、中身の地の文で直接示すのではなく、間接的に表示するのが正しい遣り方だった時代の名残である。

 表題作は、幕末の「軽薄才子」西村虎吉の、遊興の挙句の転落と、辻で浄瑠璃を語るまでの身分に落ちてからの立身出世、を描いたものだ。最後には、釜座の職人として、何事も為さなかった、というオチで締めくくられる、一種の職人もの(かなり反語的ではあるが)になるが、京から江戸への転落道中、最下層の江戸の住民たちの生活が、前近代の情景としてかなり精細に描写されていながら、主人公の捩れた、野狐禅とでもいうような半可通な「悟り」や、口八丁でおべんxちゃらを言いながら、腹の中では世の中すべてを見下しているという異様な自尊心の高さ、などは、かなり近代的な生々しさをも持っている。その矛盾こそが明治の小説なのではないだろうか。
 どうあっても(私、夷洲斎個人が)「友達」にはしたくない人格の主人公も、それ以外の幕末の、歴史の表には決して出てこない人々も、今、日本を見回してみて、どこか懐かしい感じがしないでもない。

 それにしても、一番面白かったのは、虎吉と品川の女郎お萬との、男女の駆け引きだ。お萬には「鬼殺し」「頼光」という仇名がついているから、どんな「手」を使うかと思えば、これがツンデレ、なのである。
 メイド喫茶のツンデレ・オプションと、さして変わらぬ手法。ツンデレというのも…神代の昔からあるテクニックなのだ、とわかって何となく微笑ましくなった。
辻浄瑠璃・寝耳鉄砲―他一篇 (岩波文庫)
岩波書店
幸田 露伴

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「風は山河より 第一巻」「第二巻」宮城谷昌光 新潮文庫

2009/11/03 06:01
「三国志」の時に触れたが、あの本のびっしりと細かい情報で埋められた、複雑な重層感は、この小説からは感じなかった。
 理由は簡単だ。それは、殆どが知らない(未知の)情報だからである。
 1800年前の中国の歴史より、450年前の日本の歴史の方が未知であるとはいかなることか。

 菅沼定盈という武将。戦国時代のシミュレーションゲームででもなければ登場しない名前である。徳川家臣団の一員であるということ以外は、たいした情報も持たない。
 しかも、その祖父・定則から小説は始まる。戦国時代の三河国の内情、という、後に家康が天下を取ったためにスポットライトが当たるものの、その以前はどんな状態だったのか、殆ど未知の領域である。
 〔徳川家臣団〕の形成過程であると思えばよいのだろうか。大久保だの本多、酒井、奥平、といった、家康の有名家臣たちが、あるいは味方に、あるいは敵になって乱舞する。
 何より、家康の祖父である松平清康が、三河一国を統一する過程が、東三河の一豪族である菅沼定則(新八郎)の視点で描かれるというのは、外装はともかくかなり斬新だ。三河国の小豪族たちの動向が、かなり面白い。
 他の〔国〕でも、さほど事情は変わらないのだろうが、宮城谷は、尾張は商の国で理を重んじ、三河は農の国で情を重んじると、現在は同じ県(愛知県)である両国を、かなり的確に既定していると思う。…多分、この題材を取り上げたのも、彼自身の地元だからなのだろう。
 守山崩れ、という少しは有名な事件後(妖刀村正)、ようやく家康が生まれる寸前で、第二巻は終わる。おそらく主人公である菅沼定盈も、同年の生まれらしい。いわば、長い前ふりがここまでということなのだろうが、その割に、祖父に対する読者の感情移入が完了してしまっている。小天地に棲むある一族の歴史(そういえば、三河野田城というのは武田信玄の終焉の地だな)だと思えばいいのだろうが、(大きな)歴史の明るみに出すと、一種の裏情報になってしまうという気がしないでもない。
 まあ、まだ途中だから評価するのは難しい。
 ここまでは、具体的には知らないことばかりで、かなり面白くはあった、とだけ書いておく。
風は山河より〈1〉 (新潮文庫)
新潮社
宮城谷 昌光

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風は山河より〈2〉 (新潮文庫)
新潮社
宮城谷 昌光

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「ベルリン・ノワール」テア・ドルンほか 小津 薫=訳 扶桑社

2009/11/02 03:28
 10年近くも積んであった本。
 ドイツ・ベルリン在住の作家5人によるアンソロジーである。
 〔壁〕崩壊から10年後のベルリンを舞台としたノワール小説が5編。
 〈東〉が3人、〈西〉が2人ということだが、日本で読んでもその違いが明快にわかるというものでもない。
 内容も、質もバラバラだが、Sバーン(都市近郊鉄道)が何らかの形で登場するということだけが共通している。コンセプト・アンソロジーとでもいうか、お題を出したというか、こういう本は日本ではあまり見かけないから新鮮である。
 解説で知ると、気に入ったのはおもに〈東〉の作家だ。まず、ノワール小説の舞台としては、当時(2000年)は〈東〉側の方が相応しかったのだろう。
 ただ、ベルリンの地図くらいは巻頭に入れて欲しかった。詳しく知らない〈都市〉の小説なのだから。駅の位置関係とかが掴めれば、もっと面白かった気もする。
「犬を連れたヴィーナス」という巻頭の小説は、何となくプロット無視な感じがする〔ドガチャカ〕した内容。〈西〉側の爛れた雰囲気は出ているが、小説の展開の仕方としては、〔感覚〕を優先した私の嫌いなタイプである。実は、巻頭がコレだったせいで、10年前に読むのを中断したらしい。アンソロジーというのは、配置の仕方が重要なのである。
「ガードマンと娘」「ブランコ」「狂熱」という、〈東〉の作家3人の小説は、アノ時でなければ書かれも、読まれもしない小説である。一夜にして、何もかもが「変わって」しまう体験というのを、文芸的に表現する。ノワールな小説に〔自然に〕なる。
 つまりは、日本の〔戦後〕の小説と似た雰囲気(「野獣死すべし」とか)になってしまう、ところが、私の中にスッと入ってきた所以だと思う。
 各作家の温度差すら、あの一時期でなければもう二度と表現できないだろう。その意味では貴重である。
 2009年の今、読む(しかも、外国人が)意味はほとんど無いかもしれないが。
ベルリン・ノワール
扶桑社
テア ドルン

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「ジャンピング・ジェニイ」アントニイ・バークリー 狩野一郎=訳 創元推理文庫

2009/10/31 06:30
 探偵小説の黄金時代。つまり1930年代のイギリスとアメリカののミステリーには、どこか「日曜日の午前中」という気配が付き纏う。この感覚を説明するのは、とても難しいが。

 この本は、そのものずばり、1933年刊行の、「本格」ミステリーである。
 バークリーといえば、「毒入りチョコレート事件」だろう。何種類もの説得力のある「解決」が並列されるという…それに、犯罪に対する〈趣味人〉たちが探偵ごっこに興じるというあの牧歌的とさえ言い得るスタイルを開発したミステリー作家だ。ミステリー小説にとって、「犯罪」というのが現実の社会問題と何の関係もない、いわば趣味的に捉えられる事象だということをぶっちゃけたヒトと言い換えてもいい。
 そういうイギリス的な皮肉が、この本でもたっぷりと利いている。
 殺人者か被害者限定の仮装パーティーが開かれる。ご丁寧に、わら人形を吊るした絞首台を舞台装置にした悪趣味なそのパーティー自体が、中で起きる〈殺人〉の計画の一部ならば、これは普通の本格ミステリーだが、そんなことはまったくない(らしい)。
 殺される被害者の何ともいえない嫌な性格が、たまたま参加した〈名探偵〉シェリンガムの目に徐々に明らかになる。この被害者の酷さは格別で、小説に書いてもリアリティに欠けると読者に思われるだろう、と(シェリンガムはミステリー作家である)思うくらいである。「自分が中心で、常に注目を集めていないと我慢できない」「その癖、注目を集めるべき何物も持っていない」…要するに、空気が読めない(空気があるとも思わない)自己中である。この場合の「空気」には、自己の正当な評価、というのも含まれる。ほら、〔規模〕は違うけど、わりと居るでしょう。
 その女性が、件の絞首台で首を吊って死んでいるのが発見される。何しろ、注目を自分に集めるためにそんな真似をしかねないほどの人物だったので、誰もが自殺と考えるが、シェリンガムはあること(ネタバレ)から殺人だと気付く。ここからが、バークリー節の始まりである。この名探偵は、犯人を庇って、警察(検視官)に自殺と判断させるべく活動を始めるのである。犯人探しはそのついでに過ぎない。
 まるで「後期クイーン問題」(名探偵が、事件に関ること自体への諸問題…つまりは、名探偵の〈動機〉)だ。もっとも、ベクトルが真逆だが。そこが、イギリス人的正義というか理想…法律より、個人の倫理観が優先しても已む無しというやつかもしれない。なるほど。
 だが、この名探偵は本当に気の毒になる。後半は、警察に尻尾を捕まれないために偽証し、偽証をレクチャーし、そのドタバタ振りが殆ど報われないという、パロディじみた展開になってしまうからである。

 ミステリー作家の名探偵、些細な点から論理展開する手法、このロジャー・シェリンガムは、あまりにもエラリー・クイーン(作家の方ではなく、その作中の名探偵の方)に似ている。(そういえば、「最後の一撃」に、エラリーが「毒入りチョコレート事件」を読んでいるシーンがあった)が、その根底がまったく逆、なのは何故だろうか。それが、イギリス人とアメリカ人の違い(文化の違い)なのだろうか。
 ちょっと気になるところではある。
ジャンピング・ジェニイ (創元推理文庫) (創元推理文庫 M ハ 3-6)
東京創元社
アントニイ・バークリー

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